私のこれまでの無数の経験は、知らず知らずのうちに消え去っているかのようだ。普通にそこにある物事をこれらの潜在する経験した記憶を通して見ることにより、自己・自我・存在の意義を見つける。そうするための作品が「遠方」である。現在から過去、現在から未来は、どちらも現在という点から離れている。それを距離概念としてとらえてみたい。過去や未来とは、実際にはどちらにも行くことができないものであり、今の私が脳内に形成したイメージである。そのため過去と未来の二つの間には今の私からみた距離間の違いはない。ようするに同じ距離だと考える。そして、どちらも確かな映像があるにも関わらず手を触れられない、いわゆる遠方である。見た瞬間、その風景に魅了されてシャッターを押したのは、無意識のうちに、その風景の中にある多くのことに影響されたからである。そのようなことを無意識のうちに行ない、何かを理解する。私はそのようなシーンを制作した。投影された画面は過去を象徴し、写真の空白は未来を象徴する。見る者の立ち位置は、現在の私と重なる設定である。見る者がその場所から「私」を魅了した風景(経験)を見ることにより、「私」に関することを読み取る。そして、空白写真に目を向けて想像するイメージは「遠方」なのである。
一枚の写真を見るということは、カメラが捉えたある一瞬の記録を目にするという体験である。そこに焼き付けられたものは、ひとつのイメージであると同時に、長さのない「点」としての時間でもある。写真を見る時、人はその瞬間に確かに存在した光景や人物を目にして、直接写ってはいない過去と未来に、様々な想いを馳せることになる。ドキュメンタリー写真のような他者の記録でも生じる体験だが、自分自身の記録である場合、それは一段と鮮烈な「想起」をもたらす。プロジェクターが投影しているのは、私が魅了された風景である。それぞれの風景は、私の過去であり、経験であり、私のすべてだ。そして、半透明の紙に投影されたそのイメージは、細部がぼやけているにも関わらず鮮烈な印象として表われる。自分の経験したことに、そしてその投影された映像に、自分の未来が隠れているはずである。それを探れば、私が進むべき道は、画面上に写っていない部分から見つけられるのである。私は未来を紙の上に描写するに違いない。




























































































